○1/1の出来事
1919/1/1 J・D・サリンジャー、ニューヨークにて出生。
1934/1/1 東京宝塚劇場、『花詩集』で開場。
1947/1/1 吉田茂、年頭の辞で労働運動指導者を「不逞の輩」と表現。大きな反発を招く。
2001/1/1 Every Little Thing「fragile/JIRENMA」。オリコン年間13位。
○今日のロシア語
С Новым годом!
――Happy New Year!
Чем я могу вам помочь?
――How can I help you?
○日記
起きてテレビをつけると、お笑い特番がやっていて、紅白の羽織袴の司会者が金屏風の前に立ち、話している。正月だな、と思う。しかし、今日は寒くて、あまり眠れなかった。ごちゃごちゃとした悪夢を見たような気がしたが、すぐにその内容は忘れてしまった。
いつもと変わらず、パンと野菜(きょうはきゅうり)と蒸し鶏を食って、学校に行った。大晦日に年を越しながら読んだ本をまた読み返す。読めば読むほど、いかに自分が物語の簡単な筋書きも人物造形も全体の構造も読み落としてしまっているか、気づくものである。そして、その造形に改めて感動し、また自分がなぜそれを読み取れなかったか、考えたりなんかもする。無意識に取捨選択をしてしまっていることは往々にしてあるものだ。
正月とも言えぬ正月。帰って、またいつもの通り、買い置いていた野菜でフライパンいっぱいに炒めものを作り、フライパンのまま食べる。米は1.5合炊いてあるが足りない。誰かがいなくては、正月らしい食事も遊びもしない。正月を迎えるという儀式もない。年内に読み終えようと思っていた本が、ただそのあいだに何の隔たりもなく、翌日に持ち越されただけだった。
年明けには何の意味もない、と思ってきた。その通りである。正月? それがどうした。しかし、むしろその何の意味もない時間に、意味を持たせてやり、区切りと循環とを見出すための儀式が、正月なのだった。とはいうものの、儀式はひとりでやるものではない。儀式はルーティーンではない。ひとと暮らすということ、集団のなかで暮らすということの意味を考える。
アマゾンで12月30日に注文した本が、元旦に届いていたことに気づいた。これもまた、年明けに何の意味もないことを明かす。資本に正月休みはない。ただのっぺりと連続的に均質な時間が流れていくだけだ。僕はその恩恵を享受している。ありがたい。あさってまでに読まなければならないのだったから。けれども、そのアマゾン的時間と、帰省先的時間(南米と日本との時差の話ではない)をどちらももっておかなくてはいけない。もやしと特売肉と値引きされたピーマンに塩をかけて炒めただけの何かをフライパンからそのまま食べながら考えた。
そして、届いた本を読もうとして、図書館から借りてきた本に目がとまり、さっと目を通していると、そのまま最後まで通読してしまった。自分の来し方を考えた。今年は、これまでの勉強の総決算と、これからの生活の青写真を描く年だ。総決算に青写真、バカバカしい。でも、そうやって区切りと循環に意味を見出すことの意味を、元日に考えたのだった。