2025/1/4

○1/4の出来事

1848/1/4 桂太郎長州藩士の次男として出生。

1886/1/4 高畠素之、旧前橋藩士の五男として出生。

1889/1/4 夢野久作、福岡市にて出生。

1967/1/4 The Doors のデビューアルバム “The Doors” 。ビルボード2位を記録。

2019/1/4 ミシェル・ウエルベックセロトニン』刊行。

 

○今日のロシア語

Добро пожалобать! 

――Welcome!

 

Я опоздал на пячь минут.

――I was five minutes late.

 

○日記

めずらしく、7時過ぎに起床。磯辺焼きにきなこ餅。すこし、読書をしたあと、彼女と桃鉄をする。彼女が洗い場で片付けをしてくれているあいだに、僕はNintendo Swich の起動とゲームデータのローディング、リモコンの設定をする。手が泡まみれの彼女の指示に従って、任務を遂行しようとするも、まるでわからない。どこのボタンが、とか順序が、とかというのが、ほんとうに想像もつかない。いわれても、どこに何があるかわからない。これまでは、そうやって右往左往している(主に年長の)人間を嗤ってきたものだったが、もはや嗤われる側にいる。嗤うか嗤われるか、というプライドとか優位性の問題よりも、なにか自分の理解できないありようで何かが進んでいくということの諦めに近いような感慨を覚え、自分で笑ってしまった。かつて、得体の知らない機器を握りしめ、困ったように笑っていた年長者たちと同じ顔をしていたことであろう。けれども、それは自分が余計者になったというようなセンチメンタルで甘さのある感情ではなく、そういうものなのだ、と新たな認識を得るに過ぎない。

皿洗いの手を煩わせて、結局、設定もやってもらってしまった。

桃鉄というのは不思議なゲームである。速さを競い、全国を縦横無尽に駆け抜け、敵を蹴落とす。そして、ボンビーなる不条理を回避しながら進む。しかし、キングボンビーのデストロイヤーとか、台風といった災害という回避し得ない不条理もまた降ってくるというのも、現実的な生々しさがある。

これは、偶然性をどれだけ金に物を言わせて蓋然性を高め、引き出せるか、というゲームである。カードをたくさん引き、あるいはカードを金で買い、すばやく目的地にたどり着き、すばやく買い占める(あるいは、いったんその目的地をめざす戦いから降りて、別の場所――ブルーオーシャンを買い占める事も戦略の一つである)。すごろくだから、最後は運なのだが、それまでにできるだけよいカードを引き、それを駆使して確率と蓋然性を高めた上で、偶然性に賭ける。そういうゲームであり、そして現実の事業もそれに当てはまるところが大いにあるのだろう。

すべては移動と速度であり、そうして掻き集めたカネである。そうしていると、天の仙人や、地元の偉人が助けてくれたりする。これは天恵である。そういう縁も、動いているうちに手に入る。しかし、最後にはすべて運である。サイコロの目である。けれども、ここで重要なのは、最後の決定打が運だというだけで、その蓋然性は、さまざまな戦略と手段によって十全に高めうるということである。

 

昼、カルボナーラをつくって食べる。そのあと、本屋、散歩。

夜はストレッチと筋トレをしてから、食事。ストレッチというものが僕には難しい。力を抜くということ。脱力。それがうまく行かない。筋トレは、ある箇所の筋肉にエネルギーと注意を集中させることだ。ストレッチはその箇所を意識しながら、そこからこわばりを取り除く。こわばりとはなんだろう。そこで抜かれる「力」とはなんだろうか。いや、では筋トレで集中している「エネルギー」とは何なのか。困惑しながらストレッチを行う僕への指導に負われ、彼女はストレッチどころではなかった。

夜、みつばと豚肉のスープ、じゃがいものガレット、ごはん。

誰かのために、と思わなくては、わざわざ料理に手をかけない。生活に柔軟性は生まれない。ストレッチ。年が改まって、誰かと暮らすことの意味のようなものを考えている。自分のペースを乱されたくない(からひとりの方が気楽だ)、というとき、では、その自分のペースなるものとはなんなのか、それはあまりにも小さなものでしか、偏狭なものでしかないのではないか、という疑い。「自分のペース」なるものが、いかに「自分」以外のものによって作られているかを知ること、「自分のペース」では、カバーできない何かを抑圧していることを知ること。