2025/1/7

○1/7の出来事

1906/1/7 第一次西園寺公望内閣、発足。

1924/1/7 清浦奎吾内閣発足。貴族院議員中心の組閣。

1932/1/7 米国務長官、スチムソン=ドクトリンを発表。日本の満州での行動に対する不承認を正式表明。

1944/1/7 インパール作戦大本営が許可。

 

○今日のロシア語 

Зимой  мало птиц.

――In the winter there are few birds.

 

○日記

授業での発表に向けて、レジュメを作ろうとするも、まったく進まない。こんなことをやってどうするのだろう、と思う。こういう状態に入ってしまうと何も進まない。こんなことではいけない。進まないことよりも、そんなニヒリスティックな状態が。

なぜ、その研究をしているのか、と問われ、うまく答えることができない。研究意義みたいなものはいくらでもしゃべれる。しかし、それは嘘だ。実用性とか研究の動向とかいう「物語」の強いるままに話しているだけだ。

自意識の問題である。中上健次について研究することは、ほかの作家を研究するのにまして、先行論としての批評に対峙することである。その批評家たちをやっつけなければならない。彼らが神話化した中上を、脱神話化する。批評家の手から中上という物語を解放する。

そのような意識のなかには、批評家への愛憎がある。その意味で、私は典型的な批評家ワナビーである。趣味で批評を読む、などではなく、「ワナビー」であり、でしかない。そのことを認めなくてはいけない。

すでに批評をやっているひとたちに対しても、複雑な思いを抱えている。自分はやらないんだ、批評ゲームには乗らないんだ、という最後の自己疎外の一点で、自己を保っている。自己を疎外するといことによって、逆説的に自己の優位性を保っている。

そんなことのために研究されるのは、中上もたまったものではなかろう。だが、ここまでくれば、その私の内面的な倒錯とルサンチマンを昇華し、また中上の小説をもっと丁寧に読むことによって直接的になにかを考え、自由になるべく、作業を続けていかなければならないと思う。